ディープストーリー

北條良子ディープストーリー

ここではプロフィールに書ききれなかった私の人生を書きたいと思います。

心の底に、澱のようにたまっているものを感じていて、今こうしていても、書くことに迷いがあります。読んだ人にどのように思われるのかも気になっています。

けれどもこの澱のようなものが、日々自分を責め後悔させている元になっていて、それを内側に隠し持つことが、かえってそのものに力を与えているのだと思うようになりました。

書いた先に何が起こるのかわかりませんが、全てを明らかにしてみたいという心の声に従って書きたいと思います。

コーチングに出会う以前の私

2008年にコーチングと出会う以前の自分を思い出すと、とても恥ずかしくなります。

大阪の下町生まれ。私鉄職員の父と、地方公務員の母、父方の祖母、年子の弟二人の家族でした。

小さな頃から親に自分の良くないところを指摘されて育ったので、自分に自信がなく、失敗する=良くないことなので、チャレンジすることを嫌がって小さく縮こまって生きていました。

いがみ合う親や、引きこもりの弟のこともコンプレックスで、同じように家庭に問題を抱えている友人にしか家のことは話せず、深く聞かれること嫌で人付き合いを避けて過ごす日々。

会社の飲み会があると、一ヶ月前から「隣の人と何を話そうか、家族のことを聞かれたらどうしよう」と悩み、「もしゲームやカラオケが始まって、できない自分を見せなきゃいけなくなったらどうしよう」と悩み・・・

本当に毎日小さなことで大きく悩む日々でした。

自分の弱いところを見せられず、プライドが高くて自意識過剰で、会社では教育・研修を担当していましたが、当然受講生とも距離感が縮まらず。受講生の心がキャッチできず、空回りの研修だと感じながらもどうしていいかわかりませんでした。

親との関係や弟たちのこと

父と母は私が幼い頃から喧嘩ばかりでした。

父は子ども好きの楽しい人ですが、家族と深く向き合うのが苦手で、嫌なことから逃げていくタイプ。

母はカッとなりやすい性格で、父の何気ない一言が気に入らないとくってかかって、口汚くののしる。そしてストレスは子供達に向けられ、母が気に入らないことがあると、ゲンコツで殴るという体罰を与えられました。

日中、母は子ども達のいたずらや気にいらない振る舞いを数えていて、寝る前にその数だけ叩かれる、という思い出があります。子ども心に寝る前の時間が憂鬱でなりませんでした。

暴言もあり、「あなたの顔はお父さんにそっくりね。本当に大嫌い」なんかが印象に残っています。抱きしめられた記憶もありません。日々、母の顔色を伺いながら過ごしていました。

こんな風に育てられるとどうなるのかというと、なんだか自分に自信がなく、信頼が持てないまま大きくなる感じです。

人との距離感もうまく取れなくて、他人と仲良くなるためにどうすればいいのかわかりませんでした。

それは弟たちも一緒だったようで、上の弟は高校進学後に中退して、引きこもりになり、下の弟も中学3年から引きこもり。家に二人も引きこもりの子供がいる家庭になりました。私自身も同級生が皆、幸せな別世界の住人のように思えて学校に違和感を感じ、中学・高校はさぼっては遅刻したり休んだりしていました。修学旅行もさぼって行っていません。

その後、上の弟は大検を取得、大学進学で家を離れましたが、下の弟は15年という長きにわたって引きこもりでした。

下の弟がなぜ引きこもりなったのかはわかりません。泳ぐことが苦手で、最初は夏の体育をさぼりたくて休み始めたようです。その後は、もう学校に行きませんでした。

理由がわかれば何か対処できるかと思いましたが、何を聞いても反抗的な表情で無視するので、いつしか家族もあきらめてしまいました。

私も最初は心配していましたが、自分自身が大学に進学し、初めて学校が楽しいと思えたこと、長年の引きこもり生活の中で、弟が集めるいやらしいマンガ本で部屋が天井まで埋め尽くされるのを見たり、親からもらったお小遣いで高価な自転車を買い、なぜか家の仏間で手入れをして家中を油まみれにさせるなど、弟に理解できない行動が多くなって自然に避けるようになりました。

「親がお小遣いをやるなんて、ずいぶん甘いな」と思った方もいるでしょう。

引きこもりも後半になると、弟は万引きを繰り返して親を困らせるようになりました。しかも布団などすぐに見つかるものを盗もうとするんです。本当に恥ずかしいことですが、警察に捕まったのも1度や2度ではありません。それを防ぐために、親がおこづかいをやっていました。

引きこもりの弟の向き合う

さらに悪かったのは、弟がいつの間にか精神薬とアルコールを併用し始めたことです。

社会人になって一人暮らしを始めた私が実家に帰ると、弟の顔に赤黒い大きなあざと傷がありました。

驚いて「どうしたん?」と聞くが答えません。親に聞くと「薬とお酒を一緒飲むから、時々足元がふらついて物にぶつかってしまうねん」ということでした。

この時、「これはマズイな・・・」という気持ちがゆっくりと黒いシミのように心に広がっていった感覚を覚えています。薬物とアルコールを併用するということは、弟は辛い現実を忘れたかったのでしょう。普段は仲が良くなくても、その心情を思いやると胸が締め付けられましたし、何よりすでに薬物中毒になっている可能性が高く、すでにそれをやめさせることは困難に思われました。

その場で親にやめさせるように言いましたが、笑いながら「大丈夫やって」「無理ちゃう?」と言ってその場を終わらせようとします。

思えば、弟がひきこもって15年。「非日常」が日常になって、親も感覚がよくわかなくなっていたんだと思います。弟は引きこもりといっても、お店に買い物に出かけたり、病院に行くことはできました。でも出かけるということは、どこかでまた万引きをしているのかもしれません。警察から電話がかかってこないように祈る日々。両親の感情が麻痺して、現実がよく理解できていないように見えました。

親の反応に危機感を強めた私は、家に帰ってネットで引きこもりの当事者グループを探したり、薬物中毒の対策について考えました。

一人暮らしを始めてからは、お正月くらいしか実家に帰りませんでしたが、この頃やっと毎日実家に帰って、弟や親と向き合い、薬の怖さを話したり、当事者グループで友人や仲間を作る大切さを伝えたりするようになりました。

15年間で初めて親や弟と向き合い、わかったこともありました。

母親は公務員として勤めていましたが、ひきこもりについて公的機関に相談すると、自分の同僚に息子が引きこもりであることを知られることを恐れ、何の相談機関も利用していませんでした。私は母親が世間体を気にしていることに、全く気づいてなかったのです。

そこで市外の自助グループを利用することを提案し、弟本人の了承も得て参加する日程を決めました。常用している薬を多くもらうために、病院に2つかかっているということもわかったため、主治医とも現在の状況を相談しようと、それぞれ予約を取りました。

弟にはこれから力になることを約束して、過剰に薬を飲まないこと、アルコールと併用しないことを約束しました。でもそれを守るのが難しくて、私に隠れて飲んでいる様子がありました。朝方4時頃、電話がかかってきて薬やアルコールを飲みたい気持ちを訴えられることもありました。私は昼間、普通にOLをしていたので、必死な日々でした。

この頃やっと弟と少し気持ちが通じ合った気がします。

引きこもりになった当初から、顔を合わせれば「学校行けば?」「進学すれば?」という姉でした。私は私の価値観からアドバイスしていましたが、弟にとってみれば、自分の気持ちをわかろうとしない、できないことを求めてくる嫌な姉であったと思います。

あらためてじっくり実家の雰囲気を味わい、暗い顔でみんなが暮らしているのを見て、思わず口について出てのは、「だいじょうぶだよー。なんとかなる!人生これから!」でした。

この時ほど弟や両親の顔がホッとしたものに変わったことはありません。

悩んでいる人は、具体的なアドバイスが欲しいんじゃない、自分は大丈夫だと安心したいんだ、と理解できた瞬間でした。

母から聞きましたが、この頃弟が母のところに来て、ポツリと言ったそうです。

「やっとオネエが振り向いてくれた」

私のことを兄弟として頼りにしたい気持ちを持っていたのでしょうか。

「すまない」という気持ちにもなりましたし、「でも私もどうしたら良いかわからないのだ」という複雑な気持ちでしたが、とにかく喜んでくれていることはわかりました。

弟の死

いよいよ明日は自助グループに行くという日の朝4時ごろ、家に電話がかかってきました。

「また弟かもしれない。薬を飲みたいのかも。」

起き抜けのぼーっとした頭で電話に出ると、父親でした。

泣いているようです。

かすれた声で伝えられました。

「良子・・・今日予約してたところな、もう必要なくなってん・・・J(弟の名)が、事故で・・・酔っ払って自転車から落ちて頭を打って・・・もう意識ないんやわー」

夜中、弟はアルコールを買いに行こうとして外出したようです。が、その時にはすでに酩酊状態で、自転車を漕いでいるうちに意識を失い、アスファルトに頭を打ち付けて脳挫傷になりました。

この時の気持ちは不思議なことに、よく覚えていません。

「あぁー・・・なんで今日なんやろう?一歩遅かった。」という虚しい気持ちであったことは、なんとなく記憶にあります。

1週間、ICUに入院して弟は亡くなりました。彼が28歳、私が31歳でした。

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弟が亡くなって、早朝電話がかかってくる日々が終わり、平和な毎日に戻りました。正直、これで警察から電話がかかってくることも無くなるし、薬やアルコールを飲んでないのか心配することもない。ホッとする部分もありました。

けれども、そのホッとする気持ちが、返って罪悪感となって自分に跳ね返ってくるのです。

私は弟が引きこもっていた15年間、優しい気持ちで接することは、ほとんど無かったと思います。心配はしていましたが、その気持ちが相手を早く社会に復帰させようという言葉になって出てきます。私と話しても弟は焦るばかりだったでしょう。

それには私のこんな気持ちがあったのです。

このままお互い年をとったら、弟の面倒を将来私が見ることになる。そんな事情を背負っている私と結婚してくれる人なんていないかもしれない。将来が怖い・・・弟が重い・・・

恐ろしいことに、私は「弟なんて死ねばいい」という気持ちさえ持っていました。本当に自分中心の考え方です。けれどもそれが現実のことになると、自分が抱いていた気持ちの罪深さが恐ろしく、「私がそんなことを考えていたから、現実になったのではないか」と強烈な後悔が私を襲いました。

この頃はよく夢を見ました。

私が弟と一緒に郵便局で仕分けのアルバイトをしています。

弟の社会復帰のために私も一緒に働いている夢でした。

実際に弟の生前からやってみたかったことで、現実にはできなかったことが繰り返し夢となって現れました。

目がさめると涙が流れていて、弟の死に顔が思い出されました。

同じ母親から生まれて、同じ家で育ち、彼は死に、私は生きている。ほんのちょっとした運命の違いで、立場は全く逆転していたかもしれない。なのに私は弟に親身なって寄り添ってあげることができなかった。

若くして亡くなった彼の人生にどんな意味があったのだろうと思い、その答えが見つけられません。いくら考えてもどうすれば良かったのかわからず、苦しかったです。

コーチングと出会って

こんな状態が6年ほど続いたでしょうか。

私は無事に結婚して子ども生まれ、ワーキングマザーになっていました。

弟のできごとは、誰にも話さず、自分の心の中に秘めていましたが、常に「なぜ死なせてしまったのか」という声が聞こえてきて自分を責めている状態でした。

人と親しくなると家族構成について質問されるので、どんな人にも微妙な距離感を保ちながら付き合っていました。相手からしたら不思議に捉えどころがなく、壁がある人だと思われたいたことでしょう。

そんな時、会社からCTIという会社の「コーチング」研修を受講させてもらいました。もともと仕事が教育だったので、上司も何気なく行かせてくれたのだと思いますが、これが自分のコミュニケーションを変え、人生を変えるきっかけになりました。

コーチングは、相手が自分の中に答えを持っていることを信じ、その答えを引き出していく関わり方です。

何よりも対話する二人の信頼関係が大切だと学びます。そして、その「信頼関係」を作るには「好奇心」が大事だと言うのです。

この考え方は、自分の中には全くなく、とても衝撃でした。

今まで私は人との会話をプレゼンテーションのように一方通行のように捉えていました。つまり私が話したことを相手が評価し、楽しかったり面白ければ好きになってもらえるし、そうじゃなければ仲は深まらない、という考え方です。

試しに今まで苦手だった飲み会の席で、隣の人に好奇心を向けてみると、私が何にも面白いことを話さなくても、とても盛り上がりました。

相手は心置きなく話せてとてもうれしそうだし、自分も楽だし、これはすごい!と思い、意識的に自分のコミュニケーションを変えていきました。

この頃は、「人の話を聴くことが相手との良い関係を作ることにつながるなんて、素晴らしい発想の転換だ!だって自分のことを話さなくていいし、なんて楽なんだろう」、と思っていました。

この頃から本能的に「コーチングを学ぶと生きていくのが楽」と思っていましたが、こういった私の認識は、コーチング的関わりのほんの上辺の部分にすぎません。

コーチングとは人の可能性を信じて関わっていくものなので、私のようにまだ相手を信じきれずに、自分の方は閉じた状態で関わることは本来の関わり方ではありません。でも自分は閉じた状態でも、好奇心という一つの窓は開いて関わることは、私にとって革命だったのです。

何となくいつも感じていた「世間とフィットしない自分」「自分以外のみんなへの違和感」が少し薄れて、自分もちゃんと世界の一員であるような気持ちが芽生え始めたのだと思います。

こうして「コーチングをもっと知りたい」という気持ちが湧き上がり、自分でお金を出しCTIの応用コースに進みました。

そうだ、コーチをつけよう!

CTIの応用コースで詳しくコーチングを学んでいきましたが、それは楽しくも苦しい道のりでした。

CTIの研修では、コーチングを受けると何が起こるのか体験することも重要視されます。セッションの練習時に交代でクライアント役もするのです。テーマを聞かれて浮かんでくるのは、小さな頃から嫌な思い出ばかり植えつけてきて親への恨みや、弟の死についての後悔ばかり。

でもいざ目の前にコーチ役になってくれている仲間の受講生を目の前にすると、自分の体験を話す勇気がどうしても出ません。

誰にも自分の気持ちはわかってもらえないんじゃないのか?バカにされるんじゃないのか?そんな気持ちで、話したいテーマじゃないテーマを出すというジレンマが続きました。

そしてある時、「もうこれ以上、本当に話したいことに向き合うことなく学びを続けていくことはできない。自分にもコーチをつけよう!」と思いました。自分と向き合うことは苦しいことだけれども、でも逃げ続けることはもっと苦しい。だからと言って自分一人で自分と向き合うこともできない。この苦しい気持ちに向き合うためには、コーチというガイド役がいると思ったのです。

私が最初に選んだコーチは、CTIの研修で知り合ったCPCCで、何者にも捉われない自由なあり方が魅力的なコーチでした。「普通」じゃない「不思議ちゃん」な雰囲気を感じる人で、だからこそ普通じゃない自分を受け入れてもらえそうと直感で感じたのです。

コーチングを初めての変化

コーチングを始めて、最初の頃は、毎回号泣でした。

何年も、何十年も押し殺してきた気持ちを話したのだから、それは当然のことだったと思います。そもそも「話すこと」自体を自分に許可することが難しく、話し始めるまで5分ほど沈黙することもありました。

コーチはただ黙って聞いてくれていましたが、コーチのの心が震えていることがクライアントの私に伝わってきましたし、時に涙を流してくれました。どんなに親しい友達でも、そこまでの反応はなかったので、その時はそれが不思議なことのように思っていました。

今から思えば、そういったコーチのあり方が、すでに私に癒しを与えてくれたのだと思います。

驚いたことに、長年抱えてきた家族のつかえですが、セッションを6、7回受けると、本当に重いものは何となく解決してしまいました。ある時ふと、「もうこのテーマで話すことないな」という段階に入ったのです。

本当にびっくりしましたが、実際そうなのです。4年ほど前の37歳(2012年)頃だったと思います。

プロコーチとなった今、当時を振り返って自分自身の変化とその理由をまとめてみたいと思います。

心から癒される。安心できる場で話すことは、それ自体が癒しである。

1回1回、話すだけで心が軽くなっていくのを感じていました。今まで私は自分のことを相当ひどい人間だと心の中で責めていました。頭が悪いし、何も成し遂げられないし、家族への愛も無い。でもどんな話をしてもコーチは寄り添って聞いてくれます。また自分が言葉に言い表せられない言葉もうまく表現してくれたりと、「私のことをこんなにわかってくれるなんて」という気持ちが始終ありました。安心な場で話すことは、それだけで大きな癒しで、少しづつ自分を責める声が無くなっていきました。

質問されることで様々な視点で考えられる。

例えば母親への恨みを寄り添って聞いてくれるだけではなく、要所要所で質問をされました。親の気持ちになってできごとを見てみるという具合です。

そうすると、一方的な自分の目から見た物事の見方だけではなく、母親からの視点や、全く関係の無い第三者からの視点で物事を考えるので、今まで見えていなかった気づきがありました。

母親は私の祖母である実の母から愛されず、私と同じように愛に飢えていること。同時に、夫である私の父からも女性として大切にされず、空虚な気持ちを抱えていることに気づきました。また、何となく母は母なりに子供達のことを愛しているのだということも理解できました。

心から母親のことは許せなくても、「この人もかわいそうな人なのだ」という視点は、母と接していく私の態度を変えました。

自分のがんばりを認められるようになる。

「どうして弟のことを救えなかったんだろう?」という思いは、特に重いものとして自分の中にありました。

「じゃあ過去にさかのぼって何ができたのか?」とコーチに問われて考えましたが、何も浮かびません。その時、そっとこう言われたのを覚えています。「一生懸命やってきたんだと思うよ。その時のベストを尽くしていたんだと思うよ。」と。

もっとあの時優しくしていたら、もっとあの時助けてあげていたら・・・

いつもいつもそう思ってきました。でも・・・その時の私はそれ以外の選択肢があることを知らず、誰にも心を開けないから他人に助けを求められず・・・私は私なりのベストを尽くしてきたんだ。

熱い涙が頬を流れ、自分を許すことができた瞬間でした。

こんな風に問われたり別の見方に気づくことで、今まで気づいていなかった自分の美点に気づく瞬間があり、徐々に自分を認めることができるようになりました。

そして

親や、兄弟のことを「話し終わった」と感じた私は、次のテーマを人間関係、仕事、自分の将来といったものに変えていきました。自然と「自己実現」という次のステージに移っていったのです。

コーチングという対話で、今まで押し殺してきたものと向き合った私は、いつの間のにかとても人が大好きな、大口を開けて笑う女性になっていました。

その変化は、別の人間にガラッと変わるわけではなく、以前の自分を含んだまま変化している感じです。だから今でも、新しいことを始めることをむやみやたらと不安になったり、親にイライラしたり、弟を思い出して悲しく、虚しい気持ちに襲われます。

けれどもその傷を覆い隠すぐらいの「新しい自分」が光り輝いているのを感じています。新しい自分は、いつでも笑っているし、常に面白いことを探しています。くよくよしたりもしません。思い出すのは、脳は一部が損傷して機能が損なわれても、残った別の箇所が発達して、損傷した部分の機能をカバーする。あの話です。

それぐらいコーチングで、今まで使っていなかった自分、発見していなかった自分が花開いている感覚があります。

今、「新しい自分」と書きましたが、新しい自分とは「本来の自分」であると思っています。コーチングのセッションでは、コーチの質問に答えていくことで「これが自分の本質だ」と思う瞬間が何度もありました。自分が何を大事にし、何を信じて生きているのかハッとするのです。

その気づきが自分の軸をはっきりとさせ、自分という人間をつかんでいく感覚を得られます。世間の評価や、常識、大多数の人がいいと思うもの、そういったものに惑わされない、ぶれない、迷いのない人間になっていくのです。

ここで私のディープストーリーは終わりです。

書き始めは「読んだ人にどう思われるのか気になる」と言っていた私ですが、書くことで自分の軌跡をたどり、もう一度自分が得たものをなぞることができました。

だから「全てを明らかにしたい」という自分の気持ちを大事にし、最初に言った不安—世間の評価は気にしないでおこうと思います。

最後に皆さんに伝えたいのは、私の変化は決して特殊なことではないということです。これがコーチングの力です。

今、私は一人でも多くの方がこの力を利用して、「本来の自分」を生き切ることを願っています。